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火刑 |
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焚殺、焚刑(ふんけい)、火罪、火焙り(ひあぶり)、焼松焙(たいまつあぶり)、火張付などと呼称されることもある死刑である。 「火刑」は、古代から存在する処刑方法で、主に、姦通、近親相姦、同性愛、獣姦などの性犯罪や、妖術、異端などの信仰に反した罪で有罪判決を受けたものに適用された。 304年「聖アルバヌス」が火刑によって死んで以来、この処刑法は数多くの人間の命を奪ってきた。 また、この処刑法は、通例、絞首刑に処されるような、「夫を殺害するなどの軽反逆罪」、あるいは「贋金作りなどの大逆罪」を犯した女性に対しても行われた。 これは、「女性を人目にさらし、その肉体を人前でずたずたにするのを禁ずる良識」によるものだと言われている。 つまり彼女らは、好色な目でほくそ笑む見物人の前で縛り首にされたり、はらわたをえぐり出される代わりに、火にかけられたのである。 1696年にはスコットランドで最後の異端者が火刑になったが、軽反逆罪や大逆罪を犯した女性達はさらに何年も業火の中で苦しみ続けたのである。 「中国」 古く周の時代の記録に、炮烙(ほうらく)、焚、炙(あぶり)と呼ぶ火刑があり、同類の刑罰と思われる。 「炮烙の刑」は「油を塗って火上に渡した銅柱を受刑者に渡らせるものであって、受刑者は火中に落ちて焼死するに至る」殷の紂王の行った刑罰と伝えられる。 「日本」 日本では「火附」、「切支丹」、「政治犯」などに用いられてきた刑罰である。 古くは458年、百済から献上の官女「池津姫」が「石河楯」と密通、「池津姫」は木の枝に四股を縛りつけられ、焚殺されたと日本書紀に伝えられている。 戦国時代「信長公記」によれば、織田信長は比叡山焼き討ちで多くの僧を焚殺、また、1579年反逆した「荒木村重」一族412人を尼崎城下の民家に押し込めて焚殺したと伝えられている。 江戸時代になると、木造建築が密集していた大都市「江戸」は大火が多く、「火附け」は特に厳しく処罰され「火刑」に処されることになった。 江戸での火刑は、市中引き回しの上刑場にて「公事方御定書」に定める通り執行された。 1,裸馬に乗せて市中引廻された罪人は、薪の束の上に立たせら、「火罪木」と呼ばれる磔棒に後ろ手で縛り付けらる。 2,首・胴・両腕・股・足首を固定する縄には泥土を塗り、火によって一瞬で燃え尽きないように工夫されている。 3,「佐野薪」210把・茅(かや)700把(特に火の付がよくなるように上方に散らして懸ける)が篭の周囲に二重・三重と積み上げられる。 4,検使の与力が最後の人改めをし、風上より点火、火勢を増すために筵(むしろ)で煽る。 |
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5,罪人が果てたと見れば、鼻・陰嚢を焼き(女性の場合は乳を焼く)とどめを刺す。 | |||
火刑1「火刑2」へ続きます。 |
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