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断首刑(装置)

開発史

1789年10月9日
「刑事裁判の諸問題に関する一般審議」において、医師であり、医学部解剖学教授であり、パリ選出議員になって間もない「ジョセフ・イニャス・ギヨタン」が議会の演壇に上がった。
同僚の間で彼は清廉潔白、無私無欲な学者として知られ「魔力、占い杖、メスメルの動物磁気学」を解明するための委員会のメンバーにも任命されていた。
そんな彼の、「罪人の家柄、身分、地位、がどうあれ、同じ犯罪を犯した者は同じ罰を受けるべきだ」という主張は敬意を持って聞かれた。

1789年12月1日(フランス革命の年)
ギヨタン博士は議会において、ある法案を提案した。
「法が被告に死刑を規定している場合はその犯罪が何であれ、すべて同じ刑に処するべきである」
同僚議員に死の前での平等を熱心に訴えたあと、いずれ彼を歴史上の人物にする「死刑器具」について言及した。
「皆さん、私の機械を使えば苦しむことなく瞬く間に皆さんの首を飛ばすことが出来ます、装置は雷のように落ち、頭が飛び、血が噴き出し、命はもうありません。」
翌日、このあらましを掲載した「モニトゥール」紙によれば、法案は否定された上、議会内は大笑いにさえなったという。

1791年1月
ギヨタン博士はあきらめずにもう1度議会で自分の意見に対する賛同を得ようとした。
「斬首装置」に関する議論はされなかったが、「万人に対する刑罰の平等」の考えからなる法案、「受刑者の親族に対する不名誉の撤廃」「犯罪者の財産没収の廃止」に関しては承認された。

1791年5月
議会は「刑事裁判における諸問題」に関する非常に重要な討議の舞台となった。
それは死刑賛成者と廃止論者との激しい対立の場だった。
死刑賛成者は「死刑は戒めであり再犯を防止するものだ」と主張し、廃止論者は「死刑は合法的な殺人であり司法の決定的な過ち(冤罪)を押しつけるものだ」と主張した。
心情的には「死刑廃止」に傾いている議員が多かったが、すでに「政治的危機(粛正)」が迫っていることを感じている議員たちの多くが主張を譲り、信念もなく「死刑賛成論者」に同調した。

なお、廃止論者の中には、「ロペスピエール」がいた。
しかし、その主張とは矛盾することに、彼が独裁的に政治を行った、いわゆる「恐怖政治体制」の間(1794年6月10日から7月27日)「ギロチン」の合法的死刑執行はその頂点を極めた。
わずか40日の間に、1373の首が飛び、革命政府はフランス全土で合計3万以上の死刑を執行したと言われている。
ギロチンは恐怖政治時代の3万から4万人の処刑を除いても、1792年から死刑が廃止される1981年までの2世紀間で、8000から1万人の首を切ることになった。

1791年6月1日
議会はフランス共和国内での死刑存続を圧倒的多数で可決した。
それに続いて採用するべき処刑方法に関する討議が始まり、「もっとも迅速で、苦痛の少ない処刑に限る」という条件から、最終的には「斬首」に決まった。
しかし、共和国議会が斬首を採用したのは、その理由以上に「剣による死は貴族の物」といった貴族主義に対する報復の精神からであるという面も否定できなかった。

1791年9月2日
この日発布され、10月6日に付記された刑法によれば、「死刑囚はすべて斬首刑に処される」「死刑は生命を奪うのみであり拷問はいっさい与えない」とされた。
以後、「刑事裁判所」は死刑宣告を執行させる力を有するが、いかなる処刑手段を採用するかは、規定されていなかった。

1791年10月1日
政府の要請により、フランス外科アカデミー終身書記である「アントワーズ・ルイ」医師が2ヶ月足らずで「良識ある人間として死をもたらす技術」に関する考察と結論を書き上げ、議会に提出した。
ルイ医師は「断頭機」を制作することによってギヨタン医師の提案を現実化することを提案した。
それは、ヨーロッパ諸国で用いられてきた「断頭機」を改良するアイデアであった。
「ジレット」(受刑者の首の上に梁をたて、ひものついた刃を梁の上まで上げ、落とす。)に比べ、刃の形が水平から斜めになり、柱の高さは325センチ、刃を滑らす溝は鋳銅製、受刑者の首押さえが完全なものになった。(建材は樫木、12段の階段つき)

1792年3月20日
議会は「あらゆる死刑囚は外科アカデミー終審書記署名の意見書が指示し採用する方法によって斬首される」と定めた制令を発布した。
そして行政府が、この処刑方法を完成させるための費用を供出することを許可し、「断頭機」制作責任者には、パリ県会執行部総代理「ピエール・ルイ・レドレル」を指名した。

1792年3月31日
レドレルは始めギヨタン医師に助言を求めたが、しかしギヨタンが理論家で実践的でないと判断し、すぐさまルイ医師に鞍替えした。
ルイ医師が、政府公認大工「ギドン」に「ギロチン」の設計図を渡し、制作を依頼すると、ギドンは1日で見積書を作成した。
そこには5660ルーブルという、当時としては法外な金額が記されていた。
このような値段を見積もったのは、大工ギルドの伝統により処刑具の制作が禁じられていたため、依頼を断るためだったと言われている。

結局、税務担当大臣によってこの見積もりは拒絶された。
ルイ医師は次にストラスブールのクラブサン制作者兼音楽家のドイツ人、「トビアス・シュミット」に「ギロチン」制作を依頼した。
以前より、自らルイ医師に売り込んできていたシュミットは812ルーブルで「ギロチン」を制作する契約を結んだ。
1週間後制作された試作機は、高さ455センチ(初期設計段階の325センチから改良)で、45度に切った重さ40キロの刃が採用されていた。

1792年4月19日
サルペトリエール施療院(またはビセートル施療院とも言われている)で、ギロチンの実験が開始された。
政府役人、ギヨタン医師、ルイ医師、シャルル・アンリ・サンソン刑吏、施療院スタッフなどが立ち会った。
最初は生きた羊、続いて死体を使用した実験の結果は大変満足いく物だったといわれる。

1792年4月25日
強奪犯「ジャック・ニコラ・ペルチェ」を処刑するために、史上初めてギロチンが使用された。
断首刑(装置)5
このページにイラストが無くて申し訳ない(^^ゞいずれ描きます。

「断首刑(装置)6」へ続きます。
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