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火刑

異端狩り」というローマ・カトリックを受け入れない人間に対する迫害と弾圧は、1478年スペインに伝わると、フランス、イタリア、ポルトガル、オランダへと急速に広がっていった。
特にスペインにおいて、異端審問の力は絶対だった。
最初の宗教裁判所所長になったドミニコ修道会の祖である「トマス・ド・トルケマーダ」の支配の下、17年間で1万人以上の異端者が火刑とされた。
その後もスペイン全土で、1481年から1808年の間に生きたまま焼かれた人間は32382人(正式に記録されている人数)を数えた。
スペインによって征服された国の住民も「異端狩り」の被害者になっていった。
1568年2月16日、異端審問所はプロテスタントによる独立戦争を挑んだオランダの住民すべてを異端者として死刑にする判決を下した。
これは物理的に不可能だったが、最初に一週間で人口300万にのうち800人を火刑、又は絞首刑に処した。


フランスでも、さまざまな「火刑」が施行されていた。
フィリップ王は、彼らの財産を奪い取るため、小枝とタールと薪を入れた穴でユダヤ人を焼いた。
16世紀に用いられたスタンダードな?火刑とは別の火刑方法としては「エストラペート」がある。
異端者は腰のあたりを鎖で止められ、クレーンのような物(垂直な柱のてっぺんに取りつけられた、左右に傾く長い桁の端(シーソー))につながれて、燃えさかる炎の中に何度もおろされてはまた引き上げられる、ということを繰り返された。
エストラペート
さらにフランスでは、「火刑」には拷問が加えられることもあった。
手を切られ、鼻をそがれ、腕を切り落され、乳房を引きちぎられ、頭に真赤に焼いた鉄の輪を3重にかぶせられてから、燃盛る火の中に投げこまれた囚人の記録が残っている。
火刑6
「火刑7」へ続きます。
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