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水刑

、受刑者を鶏、猿、猫、蛇といった動物とともに革袋に入れ、重りをつけた状態で水に投げ込込む。
場合によっては「袋の刑」として「何匹もの猫と一緒に一つの袋に入れた上でおぼれさせた」といわれる。
この「袋の刑」は(古くローマ時代から存在すると言われている。)近親殺人犯に科せられる死刑である。
初期は広く自由人(奴隷ではないという意味)の謀殺に科せられた刑罰であったといわれている。
「袋の刑」執行方法は裁判官の報告書に見ることが出来る。(法律書には執行方法の記載がない)
(1)笞打(むちうち)を加える。
(2)狼の皮で頭部を包み、足に木靴を履かせ、牛革の袋に蛇その他の動物(鶏、犬、猿)と共に入れる。
(3)黒牛皮を張った車に乗せ、川に運んで水中に投ずる。

、大きな木製の桶や水槽に水を張って、縛りつけた受刑者を入れ、刑吏が抑えつけて溺死させる。
川や海、沼地や湖などがない地域で適用されていた。
水槽に沈める
16世紀の都市部においては、水路においても執行されたと言われている。

「溺死刑」は川で行われることが多かった。(上記の1、2、の形態の場合)
罪に汚れた罪人を自然(神)にゆだね、浄化させるためには、流れる水のほうが理想的だったからである。
その場合、他の処刑と比べると、「溺死刑」は岸辺に流れ着いたりして、助かる確率が高かった。
(受刑者が、死刑から生還したときは神の意志として恩赦とされることがあった。)
時代が進んでくると、川を漂ってくる死刑囚を習慣的に助けあげる者が現れるようになり(金のためや、慈悲の心から)受刑者を刑吏が棒で水中に押しやったり、杭に縛り付けたりすることが多くなっていった。


ヨーロッパにおいて、いずれの民族も「水刑」に対して独自の方法を持っていた。
●ドイツでは幼児殺しは「袋詰めの溺死刑」となっていた。
●オランダ、アムステルダムでは「異端審問」において、背教者を樽(袋)に入れて運河、海中、池に放ち溺死させることもあったと言われている。
●ローマ人は液体を運ぶ革袋に由来する「カレウスの刑」を用いていた。
紀元前5世紀にローマで使用されていた「12表法」(刑法の規則を定めていた)によると、「カレウスの刑」とは、「自由人」を殺した者は、鶏、猿、猫、蛇といった動物とともに革袋に入れられ、重りをつけられた状態で水に投げ込まれ、溺死させられることになっていた。
「カレウスの刑」はローマ人の間でしばらく廃れていたが、中世ヨーロッパ、特にフランスで復活した。
「カレウスの刑」後のローマ人は囚人の腱を焼き切ってから、鎖、石、錨、石臼などの重りをつけてから、つまり袋に入れないで水に投げ込み溺死させていた。
●ゲルマン人とガリア人は沼で溺れさせるのを好んだ。
●1905年にはロシア人によって、数百人の中国人が、自らの辮髪で二人ずつつながれてアムール川に投げ込まれた。
ルイ10世の妻であるマルグリットとその義妹のブランシュの愛人である二人のノルマン貴族、オルネー兄弟は、生皮をはがされてから、袋に入れられてセーヌ川に投げ込まれた。
●ヘンリー8世(在位1509〜1547)治下のイギリスでは、受刑者を、ゆっくり溺死させるため、引き潮のときの浮き台や柱の満潮の高さのところに縛り付けた。
●1793年のフランスでは、革命政府の名の下に、囚人や容疑者を一度に始末することのできる「垂直の流刑」が実施された。
これは可動式の船底を備えた船に(一定の時間が来ると船底が開く)足枷をはめた100人ほどの受刑者を乗せ、ロワール川に落とすというものであった。
助かろうとする者は、槍と鉤で容赦なく川に沈められた。
共和派の医師「ギヨーム・フランソワ」は、軍事委員会の指示で「倉庫」(特に女性や子供たちが押し込まれている場所)の妊婦たちを調べたときのことを語っている。
彼はそこで、腹がぴくぴく動いている妊婦の死体や、桶の中で糞尿にまみれて死にかけたり死んだりしている子供たちを見たという。
ギヨームが、数日後「倉庫」を訪ねてみると全員溺死させられたといわれた。
そのうち一人は自分と子供たちを沈めるための船の中で出産していたという。


なお、「水刑」は絞首刑や車刑のような不名誉な刑ではなかったので、岸辺に流れ着いた遺体は教会の墓地に埋葬されたという。
水刑3
「水刑」の項は終了です。
次へ進むと「断首刑」です。(^^ゞ
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