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絞首刑(吊し首)

「絞首台」は、ほぼすべての町や村に常設されていたので、住民は耐え難い恐怖に襲われていた…と言うことはなく、あまりに日常的に絞首刑が行われていた(現代の感覚では万引きといえる程度の罪でも絞首刑になった)ので、人々は絞首台で死体が揺れていても気にすることもなく生活し、居酒屋や食べ物屋が絞首台のすぐそばで店を開いているほどであった。
統治者たちは、民衆に「恐怖」を印象づけようとして、かえって無関心にさせてしまったのであった。

多くのイギリス人刑吏が、自分こそ発案者だと主張した「ロング・ドロップ」は、19世紀にアイルランド人が考案したと言われている。
1,後ろ手に縛られた受刑者は、落とし板の上にのせられる。
2,受刑者はくるぶしに足枷をはめられ、頭には頭巾をかぶせられる。(国によって色は違う、白、黒、ベージュなど)
3,長さを自由に調節できる縄は、結び目が下あごの左側にくるように首にかけられる。
4,刑吏が、レバーか紐の切断(現代ではスイッチ操作)によって落とし板のロックをはずすと、受刑者は落下する。

「ロング・ドロップ」に使用される縄の長さは、受刑者の身長と体重によって決定される。
縄の長さが短いと脊椎は折れず、受刑者は「吊り下ろし」と同じでゆっくりと窒息死することになる。
逆に縄が長いと、衝撃で首が切断される。
ちなみに、体重「61.2キロ」の受刑者に対応する縄の長さは「2.23メートル」と言われている。

56人の受刑者に対する検証を行った、ロンドンの検死官「ベンリー・バーチャス」によれば、絞首による真の死因は頚椎破壊と脊髄損傷であると言う。
「ロング・ドロップ」によってもたらされる障害は、即座の失神であり、意識が戻ることはなかった。
それに対して心臓の方は、30分後も動いている(単なる機械的動き)ことがあったと言う。
よってイギリスでは、医師が死亡を確認してから1時間遺体をぶら下げて置くように指示された。

18世紀に入りイギリスの絞首刑執行は大きな変化を見ている。
英仏戦争(1778)により国内の軽犯罪者(特にロンドン中心)は陸海軍や国民義民団などに強制徴用されたり、1785年から植民地オーストラリアのポエニィ湾周辺(シドニー近郊)や、タスマニアのポート・アーサーなどへ流刑囚として集団護送された(逆にアメリカ独立戦争(1775)によりアメリカ南部諸州がイギリス本国からの流刑囚受け入れを拒否したが)ことで、絞首刑を受けるべき受刑者が減少したのである。
こうしたことから、タイバーン刑場(1783年11月7日閉鎖)、オールド・ベリー刑場、ケニング広場、キングストン丘刑場で行われていた絞首刑執行は、1783年12月に出来たロンドンのニューゲイト監獄の新刑場で集中的に執行される方針となった。
この新刑場は12人の死刑囚を一度に絞首して吊しておける絞首台を備えていた。
「絞首刑」時の首への縄のかけ方は、国、地方によって違いが見られた。
フランス革命以前のパリの刑吏は、輪奈結びを受刑者のあごと後頭骨にかけた。
これによって後ろ向きの力がかかりほとんどの場合首の骨が折れたが、さらに受刑者の体に足をかけて激しく揺らしたため、なおさらだった。
この方法によって、パリの刑吏は「首折り」という異名をとった。

リヨン、マルセイユなどの刑吏は、輪奈結びを襟首にかける方法を好んだ。
縄の前の部分には第二の結び目があり、その結び目があごにかかり縄がはずれないようになっていた。
この場合、刑吏は受刑者の頭に足をかけ、揺さぶることで第二の結び目が喉頭や、気管を圧迫するようにした。

現代のイギリス方式では、縄の結び目はあごの左側にかけられる。
この方法の利点は、脊柱をより確実に破壊できることである。

現代のアメリカでは、縄の結び目は右耳の後ろにかけられる。
この場合の難点は、首が伸びたり、ちぎれたりすることであるが、アメリカ人はこの方法に固執している。

19世紀までのトルコでは、絞首刑の時に受刑者の手を自由にしていた。
そのため受刑者はしばらくの間、縄をつかむなどして、死を先延ばしすることができたが、やがて力尽き長い断末魔を迎えることになった。
これは、受刑者により長い苦痛を与えるためであった。
絞首刑(吊し首)3
ところで、人間は首をつられると、大小便を垂れ流すと聞いたのですが、今回見た絞首刑の写真の中には、
(7枚、モノクロ)それらしい物が見えないのですが、実際どうなんでしょう?

このページのイラストが存在せず、申し訳ない、いずれ追加予定。
「絞首刑(吊し首)」の項は終了です。
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