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引裂刑 |
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○四つ裂き 受刑者の手足を四頭の馬にそれぞれ縛り付け、四方に走らせることで、四股を引き裂く処刑方法である。 中世ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国(962年成立)で用いられていた「カロリナ法典」によれば、「四つ裂き刑」は背信者、脱走兵に適用されていた。 フランスでは、最も罪深いと思われていた「君主殺し」(大逆罪)にのみ、「四つ裂き刑」が適用された。 大逆罪とは、その名から連想される通り、反逆罪のな かでも特に重大な行為、すなわち国王(後には王族も含んだ)に対する反逆行為のことであり、反逆罪といえば大逆罪を意味することが多い。 なお、小逆罪は、大逆罪に該当しない軽度の反逆罪であり、妻による夫の殺害、奉公人による主人の殺害、聖職者によるその司教の殺害などがこれにあたる。 西洋史においても、フランスの「アンリ4世」の治世ほど、多くの「大逆罪」による「四つ裂き刑が執行されたことはない。 彼は在位16年間で18回もテロに見舞われたが(そのたびに、犯人は「四つ裂き刑」「絞首刑」に処せられた)、1610年5月14日、ルーブル宮から馬車で外出した際、フェロンヌリ通りで交通渋滞に巻き込まれ、馬車が止まったときカトリック修道士フランソワ・ラヴァイヤックに短剣で胸を二度刺され死んだ。 1610年5月27日、「フランソワ・ラヴァイヤック」はフランス国王アンリ4世を暗殺した罪で、死刑を宣告された。 さらに「今回の行動に関与しているのは自分だけだ。」と述べたラヴァイヤックに、共犯者を明らかにさせるために半長靴(スパニッシュブーツ)の拷問にかけることが命じられた。 3個目の楔が打ち込まれたとき失神した彼は、拷問から解放された。 その場に寝かされ、しばらくして体力が回復すると、礼拝堂に連れて行かれ食事を与えられ、「共犯者」を明らかにするように説得を受けたが、彼はすでに口にしていることを繰り返すのみだった。 3時間後、彼は「右手に、暗殺に使った短刀を縛り付けられた」格好で、処刑台へと連行された。 刑吏達は、ラヴァイヤックを木と鉄で「聖アンデレの十字架」(X字型)をかたどった拷問台の上に縛り付けた。 次に、彼の王を殺めたナイフを持った右手を手から肘まで「炉」に突っ込み焼いた。 その後、真っ赤に熱せられた「火箸」「やっとこ」を用いて、乳首、腕と太ももの筋肉、ふくらはぎ、そのほかの肉付きのいい部位をつまんでは焦がし、肉片を切り取り、彼の目の前で焼いた。 さらに、そうしてできた傷口に、熱した油、樹脂、ピッチ、硫黄を一緒に溶かした物を注ぎ込んだ。 |
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最後に、ラヴァイヤックの腹の上に粘土製の「車輪」を置き、車軸を通す穴に溶かした鉛を流し込んだ。 これらの拷問によっても、ラヴァイヤックは共犯者の名をかたることはなかった。 |
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引裂刑2「引裂刑3」へ続きます。 |
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