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引裂刑

ラヴァイヤックの四つ裂きの後、フランス国民が「四つ裂き刑」を目撃することになるまでには、1世紀半ほど待たねばならなかった。

1757年1月5日、「ロベール・フランソワ・ダミアン」は、ヴェルサイユ宮殿にて、ルイ15世のわき腹をナイフで切りつけた。
が、国王は寒さで着膨れしていた上、皮のコートを2枚重ね着していたので、かすり傷で済んだ。
その場で取り押えられたダミアンの所持品は、王を刺した両刃のナイフ、「キリスト教の手引きと祈り」という本、金貨37ルイだった。
この男を尋問した衛兵が、持っていた金貨は暗殺の報酬かと問うと、彼は答えを拒みながら「王太子にはぜひ用心して欲しい」と言った。
王室に対する陰謀が存在すると感じた衛兵達は、ダミアンからさらなる情報を引き出そうと「真っ赤に焼いた火箸で脚の肉を焼く」拷問を始めた。
この非公式の拷問は、「アイエン公」の到着により中止され、ダミアンは「コンシェルジュリ監獄」に連行された。
そこで収監された独房は、かつて「ラヴァイヤック」が入っていた独房だった。

革製のマットレスの上に紐で縛り付けられた(右手だけは食事のため自由になっていた)ダミアンは、自殺、共犯者による暗殺を防ぐために、2ヶ月間、12名の警護官により24時間監視された。
その間、共犯者を知るための拷問を受け、大量の水をのまされ、胸や手足を真赤に焼いた火鉗子で切裂かれ焼かれ、足首をスペインブーツで砕かれても共犯者を語ることはなかった。

1757年3月26日、高等法院による判決が下った。
それは150年前にラヴァイヤックが宣告されたものとまったく同じであった。
「被告をグレーヴ広場に連行し、そこに設けられた処刑台の上で、大逆罪の罪を犯した右手は、ナイフを握らせたまま、硫黄の火で焼き落すこと。
胸、腕、腿、脹脛を焼いた火鉗子で締付け、その傷には、融けた鉛、煮えた油、火のついたタールと樹脂、蝋と硫黄を溶かしたものを流すこと。
以上の後、体を4頭の馬にひかせて手足を引き抜き、体を燃やして灰にして巻くものとする。」
「さらに、当法廷は彼の財産を王庫に没収し、前途の処刑の前に共犯者の名を白状させるように「通常および特別尋問」にかけることを命ずる。」

民衆は来るべき「イベント」を心待ちにしていたが、担当地区の死刑執行吏「ニコラ・ガブリエル・サンソン」は決して浮かれる気分ではなかった。
彼の担当地区はこの50年間死刑が行われなかったので、代々執行吏をつとめてきた一族の出身といっても、ガブリエルには「死刑執行」の経験がなかったからである。
さらに「四つ裂き刑」は150年もの間行われていなかった為、誰も手順を知らず、残された公文書を探し回って手順を確認する有様だった。
「このまま、失敗や不手際が有れば、民衆に何をされるか解らない」と彼は心配のあまり、自分の甥である「シャルル・アンリ・サンソン」に死刑執行吏を変わらせたいと検察官に懇願したが、シャルル・アンリはまだ17才だったため、この訴えは却下された。

ダミアンの処刑は、午後4時からグレーヴ広場でパリの名誉刑吏ニコラ・ガブリエル・サンソンと、その甥であるパリの公式刑吏シャルル・アンリ・サンソンと15人の助手によって行われることになっていた。
その日、「コンシェルジュリ監獄」では、ダミアンに判決が読み上げられた。
祈りが捧げられた後、彼は拷問室に連行され、通常尋問、そして「スパニッシュブーツ」による拷問が行われた。
拷問開始後2時間15分、8個目の楔が打ち込まれたところで担当医からストップがかかり、ブーツが外されたが、ダミアンの脚は折れていた。

そのころ、あらゆる階層の人間が朝から広場を埋め尽くし、貴族たちは金貨40枚を払ってまで、広場に面した家を貸しきっていたという、グレーヴ広場はパニック状態だった。
何しろ、後数分で死刑囚が到着するというのに、「四つ裂き刑」に必要な機材がそろっていなかったのである。
刑事担当中尉がうろたえるガブリエルを叱責し、シャルル・アンリに作業を引き継ぐように命じた。
そんな中、護送車によって、グレーヴ広場に運ばれたダミアンは、準備が整うまで、処刑台の階段に腰掛けてまたされることになった。
ようやく、準備が整い、処刑台にあげられたダミアンは、鉄の金具2個で台の上に固定された。

150年前のラヴァイヤック同様、手順通りの小火刑による拷問の後、馬四頭による「四つ裂き」が実行された。
結果としては、馬が1時間も賢明にひっぱっても(1頭は倒れた)大腿骨が折れただけで、手足はまだ抜けずにひき伸ばされたままだった。
立ち会いの医師達は、「太い腱を切らなければ刑を実行するのは非常に困難だ」と死刑監督官に助言した。
処刑は日中に終わらせなければならなかったので、助言通り死刑執行吏達がナイフで腱を切断した後、馬が数回引っ張ると、片足と片腕が胴体からもぎ取られた。
ダミアンはその光景を見ており、もう片方の脚がもぎ取られた後もしばらく意識があったようだが、最後の腕がもぎ取られたときようやく息絶えた。
太い腱を切らなければ刑を実行するのは非常に困難
ダミアンの胴体ともぎ取られた四股は、処刑台の横で翌朝7時まで燃やされた。
その灰は、高等法院が下した判決に従って空中にまき散らされた。

「この日人々の中でフランス革命がはじまった」といわれている。
この、150年前と違い啓蒙時代のさなかに起こった殺戮の後、ガブリエル・サンソンは刑吏の仕事を放棄し、アンリ・サンソンは、手際の悪さを非難され牢に入れられた。
民衆は、「たいした傷を負わせたわけではない」ダミアンをアレほど恐ろしい最期を遂げさせたり、ダミアンの妻と娘と父親をフランスから追放したり(判決には戻ってくれば処刑されることが記されていた。)した、この上流階級の自己満足(見せしめ)や快楽ために行われた出来事を快く思わなかった。
ダミアンを死ぬところを法外な金を払ってみた上流階級の人々は、「大革命」という高い代償を払わされることになった。
そして、いくつかの古い刑罰とともに、「四つ裂き刑」は消滅した。
それ以来、罪人たちはその身分にかかわらず、黒い布で頭を包んでもらい、ギロチンの前にひざまずくことになった。
引裂刑4
うーん、やるなぁ、フランス人(^_^;)<死刑囚の死体を食う話は結構残っているんですよねぇ。
中には、焼いた死刑囚の肉を屋台で売った猛者もいたとか…。

次へ進むと、「車輪刑」に続きます。
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