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刺殺刑 |
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串刺刑、刺殺刑、杭打ち刑、突き刺し刑、削木、杭刑、刺刑などと呼称される死刑である。 組織や肉を、先のとがったもので犠牲者自身の体重、刑吏による軽い補助、または装置による圧力によって、刺し貫くことによって行う処刑。 「中国」 槍や杭を用いて刺し殺すという刑が正式の刑罰として採用されたという記録は見あたらないが、明の「瀛涯勝覧」(「馬歓」撰)の占城国(チャンパ)の項「西洋朝貢典録」に「削木」(堅い木の先を鋭く削って人体に縦に刺し貫いて殺す)という記述が見られる。 これは知識として伝えられた西洋(トルコ?)の刑罰を書き留めたものと思われる。 「日本」 斬首の後、首を杭、槍等に突き刺して晒すという刑(晒し首)は存在するが、生きたままの人間に対する「刺殺刑」というものは見あたらない。 「西洋」 ●串刺し刑 古代から行われた記録が見られ、ローマ人によって盛んに行われ、さらに時代をへてトルコでも行われ、中世の東欧では戦場などで広く用いられたといわれている。 また、オリエントやアジアの民族で行われていたといわれ、地球上いたるところでも見ることができた。 これは、大抵の場合、杭でもって肛門(性器)から内蔵を貫通させ、杭先端を喉や背中から出すという惨刑であった。 受刑者は腹ばいに地面に寝かされ、広げた足を刑吏たちに押さえつけられ、両腕は後ろ手に縛り上げられた。 杭の直径によっては、肛門に潤滑油を塗ったり、ナイフで肛門を広げたりして、杭の通りを楽にする。 刑吏は杭を両手でできるだけ奥まで刺し、次に大槌でさらに入れていく。 5,60センチまで杭を入れたところで、杭が垂直に立てられ(犠牲者を刺し貫いたまま)、前もって掘られていた穴に差し込まれた。 立てられた杭のうえで、受刑者は自らの体重によって、少しずつ滑る落ち深く刺さってゆく。 やがて杭は、打ち込まれた方向にそって、脇の下、腹、背中、などから出てくると言うわけである。 刑吏の腕の見せ所は、最終的に口から出るように、杭を打ち込むことにあった。 |
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受刑者は死ぬまでに数日かかることもあり、3日以上苦しむこともかなりあったようだ。 先が尖った杭を用いるほど、体を突き破るのが早くなり、受刑者が死亡に至るのが早まる。 そこで、先端は小さいが、先を丸くした杭が用いられることがあった。 そのような杭は臓器を突き破ることなく、それを押しのけたり、位置を変えさせるだけである。 それでも死は避けられないが、日数がかかることもあり、見せしめの刑罰としては優れているのである。 ドイツでは、カロリナ法典が、嬰児殺しの罪を犯した女性に対してこの刑を定めていた。 トルコでは、1830年ごろ串刺しの公開処刑が行われた記録が残っている。 インドでは、マヌ法典が7種類の処刑方法の第1に串刺しをあげていた。 フランスでは、1800年6月14日「ジャン・バティスト・クレーベル将軍(ナポレオンの部下)」を暗殺したトルコの農民「ソレイマン・エルアビ」が、串刺し刑に処されている。 まず、伝統に従い、罪を犯した右手の肉を焼ききられた暗殺者は、串刺しにされたまま2時間近く生きていたが、恐れも悔恨も見せずに死んでいったと言われている。 ワラキア(現在のルーマニアの一地方)のヴラド・ツェペシュ・ドラクラ公(1430?−1476)は、残虐な暴君といわれ、数千人を串刺しの刑に処したが、一方でキリスト教圏では英雄であり、ツェペシュ(串刺し-暴君)とドラクラ(ドラゴン-勇者)という2つの異名を持っていた。 ヴラドの行ったといわれる猟奇的な行為は、ある理由により15世紀以降、多くの版画にその様子が描かれている。 しかし、串刺しはヴラドの特別な方法というわけではなく、1453年のコンスタンチノープル攻略のときにもオスマン・トルコが使用しており、ヴラドはこの方法をトルコで学んだのであろうと思われる。 1444年より13歳から17歳まで、父ヴラド・ドラクルが様々な利害関係により、オスマン・トルコに臣従を余儀なくされたことで、弟のラドゥ(美男公)とともに人質として、トルコに幽閉されていた。 ヴラドは、トルコに擁立された一度目のワラキア公就任、失脚、モルダヴィアへの亡命を経て、ハンガリーにてフニャディ・ヤーノシュに保護される。 1456年、フニャディ・ヤーノシュの支援のもとのヴラドはワラキアに侵攻し、ヴラディスラヴ2世の迫害を恐れてトランシルヴァニアに亡命していた地主貴族達の支持を得て、ワラキア公就任が確定する。 そこで、ヴラドは城内の一室に呼び寄せた貴族たちを一喝し、「国力を弱めた責は貴公らに有り!」とすべての貴族を串刺しにして処刑したと言う。 貴族の中でも最有力の重臣を次々と串刺しにしていく様は、まさに串刺し公のおくりなを与えられるにふさわしかっただろう。 その後、ヴラドがオスマン・トルコの侵攻を退けた後、持ち上がったのは国内問題であった。 オスマン・トルコとワラキアの戦争の際にはトルコ側に参加していたヴラドの実弟ラドゥは厭戦ムードの高まる地主貴族やヴラドに反感を持っている者へ、トルコとの和平の道を探すために自分を支持するよう働きかけ、次第に賛同者を獲得していく。 1462年アルジェシュ城(ドラキュラ城)が陥落、ヴラドはハンガリー王マーチャーシュの元に亡命する。 しかし、ワラキアの代表者は既にラドゥを君主と認めており、それを知ったマーチャーシュは途端に今までのヴラド支持の考えを捨てた。 マーチャーシュはヴラドが書いたというトルコに対する完全服従の内容の手紙を理由にヴラドを逮捕する。 だが、これまでのヴラドの行動を見れば、手紙が偽造されたものであることは明らかであるので、マーチャーシュの意思はそれ以前に固まっていたのか、あるいはマーチャーシュがヴラド逮捕を行った後につじつまを合わせるために側近が捏造したかのどちらかであろう。 この逮捕劇は、マーチャーシュが教皇とヴェネツィア政府から多額の十字軍援助金を受けておきながら、トルコとの戦争はおろか兵力を移動させることすら考えていなかったという疑惑を浮上させ、マーチャーシュはヴラド逮捕の正統性を主張するために、ヴラドの数々の悪行を例に挙げて理論武装した。 ヴラドが自国内で行った殺戮行為は、旧勢力貴族たちの粛清であり、「東方植民」によってスラヴ地方を経済侵略してくるザクセン系ドイツ人の排除であり、厳格な規律によって国内をまとめ上げトルコの圧力に抗するためであった。 が、マーチャーシュは、その行為の残虐性、猟奇性のみをクローズアップしたパンフレットを作り、これを流布させ、ヴラドに対する恐怖を煽るとともに自らの判断を最良のものであると宣伝を行った。 この時マチャーシュによって作成された宣伝パンフレットの類が、送られた各国宮廷でその猟奇性から話題を呼び、転写・拡散されていった。 その工程で脚色が施されたことは、想像に難く、さらにこれに印刷術の発明が重なる。 きわもの的内容の物が売れたのは当時でも変わらなかったと見えて、ドラキュラ物語は急速広範囲に流布して行った。 こうして、対トルコの「英雄」ヴラドは凶暴な殺戮者とされ、人々の記憶に残ることになるのである。 |
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刺殺刑1拷問死刑界?においてはかなりポピュラーな刑罰ですね。>串刺しきれいに口から杭が出たときは、刑吏も鼻高々だったんでしょうか?(笑) ○ミニコラム 「瀛涯勝覧」えいがいしょうらん 15世紀、明の永楽帝の命を受けた鄭和は、大艦隊を率いて南海のマラッカ、セイロン、カリカットなど各地に向けて出航した。 この遠征に随行した馬歓は、好奇心と驚異の目で各地の地理・歴史・風俗・物産などを詳細に記録した。 ヨーロッパ勢力が進出する以前の東南アジア・インド洋地域、アラビアまでの20カ国の位置・風俗・物産・歴史・社会の様子を知ることができる貴重な見聞録。 馬歓は鄭和の南海地方への遠征のうち第4次(1413〜16,永楽11〜永楽14)・第7次(1431〜33,宣徳6〜宣徳8)などに参加しており,本書は第4次遠征時の見聞をもとに1416年(永楽14)ごろ一応成立。 その後1451年(景泰2)ごろまで補筆がつづけられたらしい。 現存するテキストには原本系と張昇の刪訂本の2系列がある。 前者は『紀録彙編』『国朝典故』『勝朝遺事』などに収められ,改訂・節略の多い後者も広く流布している。 次へ進むと「刺殺刑2」へ続きます。 |
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